俺はなんでこうなった

文章書くの苦手なんで誤字脱字色々あります。

新たな祈り

私は怠け者なので、祈ったり瞑想したりするときも

ベットに寝っ転がってすることがおおい

なので、そのまま寝てしまうことがほとんどだ

昔は、座ってやってたことが多かったのだが。。。

 

そして、22時頃からやりだして祈りながら眠りこけ

夢を見て半分目覚めては祈りを繰り返していた

 

私は純粋で清く美しい

愛であり光であり無限で自由で満ち足りている

この言葉を順不同で思うままに繰り返し

一瞥時の光景を思い出し、その時の在りように瞑想していた

 

いま何時頃だろう?かなり時間たったから少なくとも4時

もう朝方だろうと思い

以前は、神よわが心のエゴを消してくださいと祈っていたなぁとおもったとき

新しい祈りが、心の中に湧いてきた

わが心にエゴは無し

神の愛と光を映し出す鏡なり

正直、私は私を信用していない部分が多々あるので

今までどこかで読んだり聞いたりしたものが

この瞬間に現れただけかもしれない

だが、この祈りも活用させていただくことにする

ありがたし

祈り

私をお金持ちにしてください

身も心も美しいセックスフレンドを与えてください

そんな祈りもかなりしました

今後もするかもしれません

たぶんするでしょう・・・

 

でも近頃、祈りの内容がいい感じになっています

神よ、わが心のエゴをあなたの恩寵で焼き尽くしてください

そして、あなたがこの心と身体をとおして表現してください

と少し前まで祈っていました

わが心のエゴとは、神から分離した個であるという観念だと思っていて

それがなくなれば、苦しみを感じる私はいなくなるのだから

あとは神様頼みますって感じです

そのほうがいい世界になる影響を確実に与えられるだろうという思いもあります

まあ、セックスや最後に食べたいものとかよぎったりもしますが

苦しみがなくなるのなら私はいなくなってもいいやって感じです

 

そして今は

私は無限であり自由であり純粋で清く美しい
神とともにあり神としてあり愛であり光であり満ち足りている

と祈っています

↓の体験全部のせです 

一瞥 - 俺はなんでこうなった (hatenablog.com)

その時の在りようを思い出しながら祈ってるのです

まあ・・・その・・・愛的なものは感じなかったのですが

入れたかったのでいれました

だって、神は愛そのものだって読んだ本とかによくかいてたから。。。

 

いつまで続くかはわかりませんが

金とセックスに目がくらみ始めるその時まで

祈りの文面は、その時々の気づきで変わると思いますが

霊的な成長をさせてくれる祈りを続けたいと思います

 

一瞥後

最後の一瞥は

一瞥 - 俺はなんでこうなった (hatenablog.com)これで

これ以降、明晰夢やちょっと不思議な経験はなんどかあったが

目覚ましい進展はなく、むしろその後10数年間ネトゲにはまり風俗に通い

人を妬み恨み憎んで生きてきた

そんな私ではあるが、ここ数年少しマシになってきて

瞑想っぽいことをすこしやっている

身体の中にいて、一瞥時のことに瞑想ぽいことをしていると

なんか、些細なことなんだけど見えてきた気がする

 

一瞥の時、「私は空間と光を見た、瞬間、その見ている光を私だと思った」

その空間と光は、今現在肉体をまとっている私の心に映し出されていて

その位置は眉間のあたりだとおもう

それを見ている光としての私は

その奥でちょっと斜めにずれているように思える

そして、存在としての感覚というか、何とも言えないものが胸の位置になり

それも、私なのです。この3つは同じなのです

 

で、ああ!これが三位一体か!!と勝手に思っているのです

父と子と聖霊

子は心で、見ているものが精霊、見ることによって、心に力を与える

そして胸に在るなんとも表現しにくいもの、それが全部をひっくるめた父

人が、神のかたちとして、神に似せて造られた。ってこのことか!

そして、このすべてが私の心に映った真我なのではないだとうかと

まあこんな風におもっているわけです

私はキリスト教徒ではなく、家が仏教なので肉体は仏教に属してるかもしれませんが

心はインド哲学です

まあガチではなく、ゆるーくいろいろな本を何度も読み返している程度ですが。。。

 

精神的にかなり苦しかった時の出来事なので

精神異常から見た幻覚だろって言われても仕方ないと思っています

なぜかというと、かなり陰湿な感じと

不器用で怠け癖があり、性欲が激しいのを自覚していても

純粋になろうと真面目に努力せず

流されまくっているからなのです(´・ω・`)

そんな私に一瞥?って気持ちが若干あります

 

↑のすべては私が勝手に思っていることです!

これが絶対に正しいなんて思っていないので許してください(o*。_。)o

 

実体験から私はこうだった!!こう思う!!てかたおられましたら

御教授いただけると幸いです

 

 

 

ヒハツとシナモン大先生

10か月ほど前ヒハツとシナモンが

「毛細血管などの小さな血管に作用して修復する効能もあるので

血管の老化防止や高血圧の予防にも良い

みたいなことをyoutubeで見たので

健康のためにと、近場のスーパーなんかを探し回ったけど

目当てのセイロンシナモンは売ってなかったので

アマゾン先生で注文して使い始めた

ヒハツも売ってなかったけど、とりあえず放置していたら

4月ごろ少し遠出した際に見つけて使い始めた

ヒハツは最初、「マズッ。。。」ってなった

だが今はチャーハンやインスタントラーメン入れて

美味しいかもと思えるようになってきた

 

シナモンを使い始めてから2か月、鏡を見て「!!」ってなった

髪の毛ちょっと元気になってないか?

いや、勘違いかもしれない・・・

そして現在、断言できる

髪の毛が!!!!!元気になってきている

砂漠だった場所に草が生え始め

草原だった一部の場所に木が生えてきている

 

私は禿散らかすのは嫌だ

どうせなら完全に禿げたらいいとおもっていたし

このブログでもそう書いたことがあったと思う

だが、今回の事件で欲が出てきた

元気になってくれ俺の髪

砂漠がもう一度、森林になった姿が見たい

 

同じころから、ぬかずけも食べ始めて

腸内環境もかなり良くなってきたので

こっちも頭皮にいい影響を与えているのかもしれない

ただ、ずっと進行していた砂漠化が止まっただけではなく

草原や小さな森林ができ始めた

だが、進歩は遅々たるものなので

私が生きているうちにジャングルのようになり

散髪屋さんに行ってパンチパーマを!なんてのは無理かもしれない

 

私の禿はU字とO字の併発で

側面以外はほぼ禿げていたのですが

今は頭頂部に、まばらではありますが髪の毛が生えてきています

まあU字とO字の部分はまだ・・・ですが

健康効果についてはよくわかりません!!

 

 

 

幽体離脱ぽいこと

今から22年ほど前の話

鬱だったのか?精神的に不安定になって酷い状態だった

 

苦しくて泣き叫んで暴れて戸棚を殴ったら穴が開いた

その時、母が「ああ戸棚が・・・」と言った

その瞬間、色んな感情とともに私は愛されていないのだ

戸棚にも負けるのだという思考がわき

直観のような稲妻のような「あかん限界超えた心が壊れる、私が私でなくなる」

という思考と、なんとも言えない絶望感に襲われた

 

その瞬間、私は空間の一点になった

私には何もなく、ただ平和だった

音も痛みも感情もなかった

ただ無音の映画を見ているように

体が暴れまわっているのを見ていた

 

障子戸のガラスを何枚か割っていて

そこにはギャップがあった

空間の一点としての平和な自分と、見ている意味の分からない光景に

だが、数秒後には、この体は私の体だという思考が湧いた

そこから連鎖的に今までの出来事と

人間としての私についての情報が流れ込んできて

理解した瞬間に、体の中にいるいつもの私に戻った

 

これは何が抜け出たのだろう

コザール体で抜け出たのだろうか?

それとも、ただの精神異常だったのだろうか・・・

 

 

 

 

 

 

放棄とか無欲とか

不ニ一元論、バクティーヨガ、他のジャンルもあるが何回も読み返しているのは、これ関連の本で、ラマナマハルシ、ラーマクリシュナ、パパジ、バガヴァトギーターなど

その中で重要なこととして放棄とか無欲とかいう単語がよく出てくる

心を純粋にして神を知るためには欲望を放棄しなければならないと

はっきり言って、ほんの僅かの欲望さえも消すのは無理だと思っていた

一つの欲望が満たされても常に新しいものが湧き続ける

キリがない・・・

挫折、絶望し、あきらめて消えたように見えていた欲望も

目の前に機会がくれば一気に息を吹き返す

欲望や怒りや悲しみが現れても、巻き込まれないように感情や思考をただ眺めようと

努力とまでは言えないが、そう為そうとしてきた

なぜ努力と言えないかというと

断固とした決意が自分には足りないとわかっているからだ

「ま、いっか」で流され巻き込まれることも多いし

そのような感情や思考が湧くことも多い

 

 

だが最近少し変わってきた気がする

それは、欲望や怒りや悲しみが現れても否定せずに愛そうとした時からだった

今までは、嫌悪というか拒絶というか、これを消したいというおもいと同化して

巻き込まれないようにと見ていたきがする

それを欲望や怒りや悲しみが現れた時、その感情や思考に対してそれが現れたこと

存在していることを認めてあげる

いてもいいんだよと、大丈夫だよと

それから、位置的には胸に感じる私という感覚

それにも、いてもいいんだよと。大丈夫だよ。ありがとうと。

そして、私は満ち足りているとおもうようになった

正確にはそう思い込ませて精神的にそうなろうとした

今までも気が付くと、何故か満たされていて幸せだと感じることはあったが

思考が邪魔して否定していた 

現状を見ろ!!

ずっと彼女も友達もいないニートだろ!!と

 

 

 

「私は満ち足りている」思考と感情で強制的にそう繰り返した

満ち足りている

満ち足りている

満ち足りている

「あれ」とおもった

私には放棄するべき欲望などない

満ち足りているのだから

 

拒否し否定しそぎ落とすことは私には難しい

満ち足りていれば欲望の存在する場所などない

この湧き上がってくる思いを言葉にするなら感謝なのかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

散歩

6月10日くらいから

梅雨が本格的になるころまで散歩をした

大体4~8㎞で夜の8時ころ出発していた

田舎なのでホタルをかなり見かけた

ちょっと癒されて心が落ち着いたきがした

 

散歩の回数を重ねるうちに

ただ歩く

ただそれだけ

というような時があった

頭の不要なおしゃべりがおさまり

不思議な感覚に襲われた

この体と外に見える景色

この宇宙は一つの物質で同じ一体のもので

体の感覚器官という窓を通して、私という小さな点が見ている感じで

そして安定感と静けさをがあった

感覚に引っ張られたり脳内で余計なおしゃべりが始まるまでは・・・

 

長かった梅雨もようやくあがるみたいだ

また散歩を始めてみようと思う